政治としての「非政治」、「非政治」としての暴力 安倍晋三の射殺について

 以下は、2022年7月8日時点での報道を元に書いた文章に、加筆修正を施したものです。

 2022年7月8日――テレビを点け、どうやら一日中延々放送されていたらしい臨時ニュースに触れ、事件のあらましを初めて知ったのは、午後6時頃のことだった。心肺停止状態だった安倍晋三が治療の甲斐なく死亡したのを、私はリアルタイムで知った。病院の記者会見が終わり、与野党のコメント、道行く人々の感想、各国の反応、そして犯行時の映像、といったものが繰り返し流されるのを私は眺めた。
 犯行時の映像とは、「このあと銃声がします」というテロップの後で、犯人が2回発砲し、カメラが揺れ、次の瞬間には犯人が取り押さえられている映像――つまり安倍が撃たれたその瞬間は捉えられていない、不自然な映像だ。何が起こっているのかよく見えない映像の内容以上に、物々しく不自然な、映像の「流され方」の方が、より強く、出来事の性質を伝えていた。すなわち、事件がどのくらい衝撃的なのかと言えば、「無防備に映像を眺めていると心の傷を負ってもおかしくないくらい」衝撃的なのである。
 視聴者、つまり国民が示すべき模範的な反応は予め定められていたし、それと同じくらい、政治家やマスコミや警察の対応というものも、全て予め定められていた。「政治家を狙った物騒な事件」が起こったときに示されることになっていた反応、つまり、「こういう時にはこういう反応が起こるだろう」と簡単に予測できた反応は、いちいち律儀に再現されていく。
 いや、反応する側ばかりでなく、この騒動をたった一人の力で演出してみせた「作者」たる犯人そのものが、まるで国民の漠然と思い描いていた期待に応えるかのように、「いかにもそういうことをやりそうな人物」らしさをさらけ出していた。その時点で報道されていた犯人の供述は、「政治信条への恨みではない」というものだった。見事に意味不明である。安倍から「政治」を抜いて何が残るというのだろう?
 犯人に、統一教会による家族の崩壊という、あまりに可哀想な事情があったと報道された(のを私が知った)のは、翌日以降のことだった。
 いうなれば、それまでの間、報道の中の犯人は、「そういうことをやるのは、頭がおかしい奴に決まっている」という同時代的な常識を、一歩も踏み出さなかったわけである。
 政治家暗殺という事態に対して現代の国民が抱けるのは、せいぜい、「犯人は狂人だ」という常識くらいのものだろう。つまり、政治家は矢面に立つ職業であり、矢面に立つと狂人に狙われやすくなり、だから危険である――という、どこまでも即物的な物語だ。この物語では、政治家が危険な目に合うのはたまたま矢面に立つ職業だったからであり、危険な目に合うかもしれないのは政治家に限られない。社会の敵はどこに潜み、誰をいつ襲ってくるか分からない。たまたま襲う相手が政治家であることもあるが、「政治」的なキャリアや立ち位置に関係なく、「政治信条への恨み」とは全く無関係な理由で、狂人は政治家を殺すのだ。
 あるいは「狂人」でないとすれば、犯人には左翼、右翼、ヤクザ、在日外国人、陰謀組織の手先などのレッテルが貼られることになるだろう。要するにそれらは「自分たちとは違う者」の別名であり、また、まともな「政治」の範疇外にいる者の別名だ。狂人の妄想も、諜報機関の暗躍も、テロリストの暴走も、表向きの「政治」に、言論を伴ってあらわれ出ることがない点で同じである。これを機に激しくなるかもしれない右派と左派の対立は、「我々のような普通の国民は、あんなことをしない」という常識を共有する陣営同士での対立でしかないだろう。
 仮に犯人が右派的・左派的な主張を供述していたとしても、そうした供述に親和性のありそうな陣営は、真っ先に犯人を自陣営から引き剥がし、犯人を「単独」の動機へと追放し、事件に対してこれみよがしに憤ってみせただろう。「彼は単独犯であり、我々とは関係ない。このような痛ましい事件は、我々も許すことができない」。合法的な政党の合法性を担保するのは、「自分たちの主張は、人を殺すような異常者に影響を与えることはない」ということである。言論の自由というものの正当性は、「どのような言論も、言論を超えた行動を受け手に起こさせる力を持たない」という暗黙の前提に支えられている。つまり、言論の自由を正当化するのは、「言論には現実への影響力がない」という事実なのだ。いや、ひょっとすると「政治」的な言論は、異常者が誰かを殺そうと決心するきっかけを作るかもしれないが、そんなことで殺人を決心するような異常者は、政治家以外の、有名人や芸能人についての報道を観ても、同じような事件を起こしていたかもしれないのだ。
 今日において「政治」は、言論の自由を超えない範囲で「政治的」であることが許されているもののことである。「安倍を殺せ」と100回言うことは民衆にとって「政治」であるかもしれないが、そのような言論は、誰も真に受けないからこそ「政治」であることが許されているのであり、実際に安倍を殺すような異常者は、「政治」的主体としての民衆からは即座に追放されることになる。いわばそれは、言論からの現実の追放だ。そして、言論から切り離された現実――つまり、言葉で捕捉し難い現実――について国民に言えるのは、凶器に銃が使われたという点を割り引いても、結局のところ、「物騒な世の中になりましたね」という感想くらいのものだろう。殺されたのが政治家以外だったとしても、感想は同じだろう。
 「政治家を殺す者」について国民が想像する内容が貧困になることと、「物騒な世の中」の閉塞感が増すことは表裏一体だ。それらはいずれも、「現在の世の中」に対置すべき、世の中の別の在り方が失われていくことを示している。いくらでも替わりがいる政治家を一人殺したくらいで、何かが変わるなどと、誰が本気で信じられるだろう。せいぜい、防犯意識が高まり、防犯体制が強化されるくらいのことだろうが、それとて、わざわざ政治家を殺すまでもなく、もともとそうした方向に世の中は進んでいたのである。何の意味もないのに殺人を犯すのは、馬鹿か狂人だ。しかし、政治家ともあろうものが、殺されても世の中に影響を与えないだなんて一体どうなっているのだろう。
 代議制民主主義は、何の意味もない事柄を、さも重大な意味があるかのように演じてみせるシステムだ。盗聴法?テロ等準備罪?なるほど、極悪の法律だ。しかし、安倍晋三一人が少しばかり極悪(?)だったからといって、やすやすとそんな法律が制定されてしまう「民主主義」というものには、重大な欠陥があるのではないか?そして、「民主主義」がそもそも欠陥を抱えているならば、その欠陥は、安倍一人の人格の問題へと還元するべきものだったのか?
 「本来の民主主義」なるものがどこかにあると強弁し、与野党の対立を「反民主主義」と「民主主義」との対立として演出しようとしたのが、安倍政権時代の野党の戦術だった。多数決にすら勝てない側が民主主義を謳い、愚民たちが圧倒的に支持した側が「野党の皆さん」からの被害者ヅラをする見世物が、国会を始め、いたるところで上演されていた。安倍か反安倍か、という二者択一に意味があるのだと信じることが国民にとっての「政治参加」なのだとすれば、「中身がないくせに、あるふりをした罪」で政治家を殺したくなるのも、健全な感情というものである。「政治が良くなれば自分の抱える問題が解決される」という物語から切り離された者には、他にどんな手段が残されているだろう。
 だが、政治家を殺すにしても、そこにどんな大義があり得るだろう。時代の用意した想像力の貧困は、殺人者の足をすくうかもしれない。「政治」に対して別の「政治」的な物語を突きつけようにも、この時代の中で用意できる物語のパターンは限られているし、物語の中に異常者の居場所はない。いずれにせよ犯人が「政治」的主体とみなされることはないのだから、はじめから「政治信条への恨みではない」殺人ということにしたほうが、よほど体裁が良いくらいだ――殺人事件の「作者」にとっても、「観客」にとっても。
 有り得べき「政治家殺害」のシナリオが、異常者による無意味な殺人というものでしかないのだとすれば――例えば、「政治家を殺して世の中に影響を与えよう」という意思が仮に犯人にあったとしても、結局はこのようなシナリオに従わざるを得ないのだとすれば――つまり、どれだけ政治的であろうとしても「非政治」という形しかとることができないのだとすれば――、ある意味、「非政治」的な殺人こそ、政治的な殺人の唯一の在り方ということにもなるだろう。(以下、かぎかっこ付きの「政治」「非政治」と、かぎかっこなしの政治、非政治との使い分けに注意されたい)。少なくともそれは、票集めよりも、ましてや投票などよりも、よほど民主的な直接行動だ。
 かつて、「安倍晋三」は当人の人格を超えてアイコンと化し、「政治」参加の実感は、このアイコンを受け入れるか否かという問題設定を通じて供給されていた。アイコンによって感情を揺さぶられ、「政治」参加の実感を得ること――すなわち、代議制民主主義が国民に要請する「政治」的な振る舞い――とは、受動的な娯楽の消費以上のものではない。無論それは、投票先が与党であっても野党であっても同じである。
 アイコンを通じて「政治」参加の実感を求める欲望は、究極的には、「アイコンを直接動かしたい(さらには、消したい。改造したい。とにかく何らかの影響を与えたい)」という、無根拠な欲望に行き着くほかないだろう。これは、何のイデオロギーも社会観も媒介とすることがない、限りなく非政治的な、純粋な欲望だ。思想的な理由付けもなく、具体的な社会の在り方のヴィジョンもなく、ただ、どのような形でも良いから社会を動かしたいという無根拠な衝動は、「政治」参加の実感を求める根本的な原動力である。
 そうであるとすれば、「非政治」的な理由で有名な政治家というアイコンを射殺・破壊することは、代議制民主主義の写し絵のような行いと言えるだろう。「政治」の名のもとに供給されたアイコンに呼応するかのように、暴力は、アイコンを「非政治」の名のもとに引き裂いた。「非政治」的な暴力の出現は、「政治」を成り立たせる非政治を暴き、「政治」が非政治の擬態に過ぎないことを暴くだろう。
 どれだけ「政治」の力で世の中が良くなっても決して救済されることのない異常者が、この社会には、存在せざるを得ないのである。せいぜい「政治」にできることは、防犯意識を高めることくらいだろう。だが、「政治」の外部から到来する暴力が、「政治」の奥底にある大衆の欲望を振動させることもある。暴力は、いかなる時でも、道を閉ざされた者が最後にすがるべき手段であり、新しい道を一瞬だけでも垣間見せる希望である。
 だが、この社会で垣間見える希望とは一体なんだろう。
 「政治」の内実は非政治的である。が、「非政治」との戦いを媒介とする限りで、「政治」は政治的になる。政治家を狙う犯罪は民主主義への挑戦だ、だから警護を強め、異常者を早期に摘発し、異常者が潜んでいるかもしれない領域への介入を強め、国民の防犯意識を高めねばならない――すなわち、どこまでも即物的な防犯体制の強化こそが、「政治」にとって政治的である。無論これは、政治的な暴力を行使しようとする者が、即物的な「非政治」を媒介とせざるを得ないであろうことと全く同じことである。
 「政治」と「非政治」とが政治的に対立するための条件をお膳立てしたのは、「政治」の側にほかならない。この条件のもとで出現する「安倍晋三の射殺」というアイコンは、かつて「安倍晋三」というアイコンがそうだったのと同様、実態を超えたアイコンとして、代議制民主主義という名の「政治」へと絡め取られ、忘れられていく他ないのではないか――現に、安倍の死の直後、メディアを通じて国民に拡散されたのは、絵に描いたように予定調和的な「非常事態」でしかなかったではないか。
 「今回はたまたま非政治的な動機だったが、政治的な動機を持った者が同じようなテロを起こす可能性もある。つまり、このような犯罪は民主主義への挑戦である」。このような言い方がなされる時、テロの主体は奇妙な形で棚上げされている。言論ではなく暴力に訴える者には、(「政治」的な)主体性は認められないのだが、それにも関わらず、この社会は、何らかの主体性を持つ敵に脅かされているのである。「我々」が「我々」という一つの主体であるためには、敵という、「我々」とは別の主体が想定されなければならない。だが、それにも関わらず、この社会には、「我々」以外の主体が存在してはならないことになっている。唯一存在を許される主体は、「我々」という、「別の主体から脅かされている」主体だけなのである。
 敵はどこに潜み、いつ「我々」を襲ってくるか分からないが、その限りにおいて、「政治」には正当性が与えられるのだ。それは、「政治」と「非政治」、対立する2つの政治的陣営の一方である、という正当性である。敵に脅かされる被害者、すなわち敵によって相対化される陣営を演じることによって、「我々」は、敵ではなく「我々」をとるという取捨選択の自由が、さも、本当に国民に与えられているかのように偽装する。つまり、予め選択の余地なく国民に与えられるに過ぎない「政治」を、さも、国民一人ひとりが、いくつかの選択肢の中から自らの意思で選んだものであるかのように演出する。そのための装置こそ、敵というアイコンだ。
 敵につくか「我々」につくか、主体は決断しなければならない――だが決断とは何だろう。代議制民主主義以外を絶対に選ぶことができない社会で、代議制民主主義が他のシステムと比べてどれだけ優れているかを説得され、それを選ぶよう促されるのは欺瞞ではないか?そもそも翼を持たぬ者が、「飛ばないぞ」と決断させられるようなものである。
 予め定められた、最も選択するのが簡単な答えを選択し、そのことが、何か深い意義のある、自らの主体的な決断なのだと信じるよう誘導されるのが、「我々」の社会である。敵の出現は、国民の「政治」参加の実感を水増しする良い機会になるだろう。
 あらゆる構成員を一つの「政治」へと編成しようとする社会に投げかけられる、言論を持たない者の暴力は、ただ「我々」が「我々」であることを再確認する道具として利用されるまでである。この社会に有り得べき希望は、「物騒な世の中になりましたね」の一言で一蹴されるようなものでしかない。

 ――以上は、7月8日に一気に書いた文章に、若干の加筆修正を施したものだ。事件直後の報道の印象を元に書いたので、実際の犯人の「可哀想」な事情には触れられていない。
 では、そうした事情に即して、何を言うべきだろう。
 「殺人というやり方は絶対に許すことができないが、これを機に、統一教会の問題に目を向ける必要はある」。最も選ぶことが簡単な答えは、このような言い方だ。
 だが、このメディア社会の特性は、「最も簡単な答え」の流布こそが、最も深刻なひずみをもたらすことにある。
 注視すべきは、次の二点だ。
 1,旧統一教会を社会の異物とみなし、異物を排除すれば、そのような異物を生み出した社会的条件も解消されるとする態度――この態度は、テロリストのような社会の敵を、弁解の余地のないものとして、予め排除する態度と表裏一体であるということ。テロリストのおかげで問題が提起されたことを思えば、皮肉である。
 2,「統一教会問題をなんとかしなければならない」という正義をうまくアピールする度合いに応じて、自民党を含む、あらゆる政党の正当性が水増しされるであろうこと。カルト宗教がテロリスト並みに危険であることくらい、これまでも分かっていたのだが、それにも関わらず、まるで今になって問題が発見されたかのように、「こんな大変な問題があったんですね。向き合わなければいけませんね」と憤ってみせる演技――これが上手かどうかによって、国民がどの程度その政治家に感心するかが変わるだろう。
 要するに、「問題の提起」ということには、一般に、「政治」劇を消費する観客の「政治」参加の実感を水増しする特性がある。これまで当事者が人生をかけて向き合ってこざるを得なかった問題を、一過性の流行として、「最近はこういう問題があるらしいですね」の一言で消費することの残酷さにも、目を向けておくべきだろうか。「政治」を、非政治的に、娯楽として消費することに伴う残酷さだ。
 「非政治」を掲げることで無自覚に政治的だった犯罪が、「政治」的な議題へと回収されることで、非政治化されることは皮肉である。